メコンデルタ2省農村調査記録(1994/4-5)

Homeへ戻る

作成:1994年8月(1997年9月一部修正)

無断転載を禁じます

  1. 目的
  2. 実施時期
  3. 実施機関
  4. 訪問地の概観
    1. メコンデルタの位置
    2. 訪問地の経済活動の現況
    3. 経済活動の趨勢、再投資
    4. 政治的・社会的問題
    5. 民族問題
  5. 感想と補足
    1. カントー省
    2. ソクチャン省
  6. 付録 ベトナムの一般的経済状況
  7. おわりに

写真コーナーはこちらです

目的】

 メコンデルタ中央地域の経済・社会状況、その構造、法則性、特殊性を明らかにすることにあった。特に、この地域の経済の展開の基本的内容と特徴について明らかにすることを主たる目的とした。

   図1 ベトナムの河川、流水量             図2 メコンデルタ

river.gifgeo1.gif 

 拡大してみる場合は地図をクリック
 図1出所:「ベトナムの地理」ベトナム社会科学院1990年出版77ページより 図2:筆者作成

実施時期・訪問地】

 1994年4月下旬〜5月上旬

4月18日〜19日

社会科学院ホーチミン市支院にて経済研究者よりメコンデルタ地方の特徴について説明を受ける

4月20日

ホーチミン市からカントー省へ

4月21日〜22日

カントー省農業局、統計局で説明を受ける

4月23日〜24日

カントー省オーモン県トイタイン村訪問(クーロン河米作研究所にて宿泊)

4月25日

カントー省オーモン県トイアン村訪問、オーモン県農業室にて説明を受ける

4月26日

カントー省からソクチャン省へ移動、省農業局で説明を受ける

4月27日〜29日

ソクチャン省ヴィンチャウ県ヴィンフォック村、塩・エビ合作社訪問

4月30日〜5月2日

ソクチャン省ヴィンチャウ県ヴィンチャウ村訪問

5月4日〜5日

ソクチャン省ミースエン県ホアツーI村訪問

実施機関】

 ベトナム国立経済学研究所を通じて筆者個人が企画。研究所の農村研究班の研究者と同行。地域では省の人民委員会農業局を経由して県、村の人民委員会に受け入れを依頼した。農家のインタヴューでは県の農業室職員や勧農指導員、村の人民委員会のメンバーが訪問先農家を選択、同行した。

訪問地の概観】

1.メコンデルタの位置および2省の特徴−統計より

 いうまでもなく、メコンデルタはベトナムにおける最大の沖積平野で、北部の紅河デルタとともに2大平野と称されている(図1参照)。北部と比べれば、四季が無く(雨季と乾期の二季)、年間を通じて暖かく、農業には好適である。また、人口密度も北部紅河デルタと比べれば少ないため、農家一世帯当たりの耕作面積は広い。グラフ1を見ると、メコンデルタが北部紅河デルタに比べていかに農業の生産高が高いかがよく分かる(人口1人あたり)。ハノイは商業・工業などの非農業人口が多いため、除外して計算すると、メコンデルタの生産高は約1.7倍となる。ベトナムの米輸出の原動力はこのメコンデルタにあると言ってよい。この地方の東北部にはホーチミン市とドンナイ省・ヴンタウなどの都市居住地、工業地帯と接しており、これらの地域はメコンデルタ農産物の販売市場を提供し、工業生産物の供給元となっている。生産環境として紅河デルタと比べての優位さは明らかである。農業生産力が高いために、余剰部分を再投資にまわすことができ、これに東北に隣する工業地帯、商業地帯がその物資を提供するという相互関係が成立するからである。物価は南部の方が相対的に高いと言われるが生産力の格差を到底超えるものではあり得ず、生活費をほぼ同等とすれば余剰部分は数倍から数十倍に達する。(2.訪問地の経済活動の現況参照

表1 人口と面積、人口密度(1993年)

グラフ1 人口1人あたり平均の農業・工業生産高(1993年)

 出所:『統計年鑑 1993』統計総局より作成
 カントー省とソクチャン省は表1の通り人口密度には大きな差があるが、これはカントー省の土地が肥えており農業生産に適しているのに対してソクチャン省の土地が特に沿海部で塩害のために耕作に不利であることを統計的にも示していよう。人口密度がカントー省がソクチャン省の約1.6倍であるにもかかわらず、1人あたり平均としては農業生産高が上回っている。このことはカントー省の土地の肥沃度を物語っている。下の表2は今回訪問することができた2省の合計5村であるが、カントー省はかなり富裕な村、ソクチャン省は貧困な村のある程度典型的な村を訪れたことがこの基礎データからも見てとることができると思う。ソクチャンの3村には電気もまだ来ていなかった。米作の生産性ばかりでなく民族構成、人口増加率なども注目して欲しい。

表2 訪問した5村の基礎データ(前半2村はカントー省、後半はソクチャン省)

 ソクチャン省はベトナムの各省の中でもっともクメール人の人口比率が高く、また2番目に華人の人口比率が高い省である。ベトナム全国においては人口の多数を占めるキン人(ベト族)のメコンデルタ地帯への移住は歴史的には新しくグェン氏以降の300年ぐらいである。沿岸地帯などにはキン人より先にクメール人が定住していた。開拓の歴史が浅く民族的にも混在地域であったためか潅漑などの事業が大規模には進めらておらず、そのため現在に至るまで洪水などの自然災害による被害を受けてきた。(北部の開拓、潅漑の歴史は紀元前に遡る)

2.訪問地の経済活動の現況

 まず、この地域に足を踏み入れた時に感じるのは水運の死活的な重要性である。省の中心部のみを訪ねる場合には見えてこないものが村に足を踏み入れようとすると水運の存在を意識せざるを得ない。この地域では主要な交通手段は網の目のように走る河川と運河・用水を利用した舟(エンジン付きまたは手漕ぎ)である(図1参照のこと)。訪問した時期が乾期であったためカントー省の村の調査では幸運にもバイク等で道路を往来することができたが、そのほとんどは雨期には舟でしか連絡しない地域となる。ソクチャン省の2村の場合、村から舟で農家を訪問に行くことになったし、最後の村の場合、バイクと舟を乗り継いで2時間あまりしてやっと村の人民委員会に到着した。各省の中心は、ホーチミン市から主要道路(2車線程度)が延びてつながっているが、河川を越すために何度かフェリーに乗る必要があり、多くの時間を費やし、道路幅やフェリーの能力からみても大量の運搬には適していない。鉄道はホーチミン市より西南方向には延びていない。貿易を考える際に重要な港湾も河川港でもともと能力が低く、浚渫を繰り返さなければならず大規模輸送にとっては決して好適とは言えない。
 上水道も省都にしかなく、雨水を溜めるか、井戸を掘るかしかない。井戸は国際機関の援助により2〜3年前からやっと普及し始めたという。電気もやはり省都までというのが通常で筆者が寝泊まりした村の人民委員会までは来ておらず、電話もまだ普及していなかった。この点ではカントー省とソクチャン省の差は歴然としている。
 とはいえ、この地域では90年代初頭からの数年間できわだって生活水準が上昇していることは間違いない。農民が舟で乗り付ける川辺にある市場も物資が溢れかえり大変賑わっていた。ドイモイ政策の成果といえよう。

舟で農家を訪ねる(ソクチャンにて)

 訪問によって知ることのできた具体的な経済活動をまとめてみよう。

《農・水産業》

 ソクチャン省沿海部の田畑は塩と明礬の浸食で米作にはきわめて悪条件になっている。カントー省は沿海部はないので塩害などはなく、河川により淡水が1年中供給され米作には好適である。3期作から4期作が普通。ソクチャン省の塩害の地区では米作からエビの養殖への転換が進んでいた。

カントー省:

ソクチャン省:

 実際に訪問した印象は、諸農家が米作から果樹や養殖に切り替えようとしていたことであり、また、農民同士の雇用・被雇用関係が活発化しつつあることであった。農民から何度か聞いた言葉に、「1の畑は10の田に等しい」
また、こうした生産対象の変化は初期投資を必要とし、農家の所得格差をいやが上にも増大させる

《商業》

《工業》

《運輸》

《金融》

上に戻る

3.経済活動の趨勢、再投資

・再投資、利益率

年率120%〜200%〜360% 民間金融(高利貸し)
年率40% 国家金融(銀行)・短期融資分
年率60% 婦人会による助け合い
年率7.2% 「飢えを一掃し、貧困を減らす」基金 *特殊
新しい分野として、エビ養殖、畑作、精米。古い分野として、養豚があった。
中間層は、米作に他の分野の併用
カントー省の米作地帯では、米作自体は、自分で耕せば投下資金に対し40〜50%の利益率(1期当たり)とのことだった。自己耕作の場合年換算で、80〜150%程度か?
もし、利益が上がらなければ資金を貸付に振りかえる
具体的には、エビ及び米。米の価格はあまり高くはないが、エビの価格は農民の通常の収入に比べて際だって高い

4.政治的・社会的問題

 1)土地問題の経過

 2)貧富の差の拡大、階級・階層の分化傾向

 3)地方行政機構、住民との関係、党組織

 農村を中心とした行政機構としては、中央政府−省人民委員会−県人民委員会−村人民委員会−村落の順となっている。それに平行して共産党の機関−党委員会もおかれている。

5.民族問題

クメール人の部落にて

上に戻る

感想および補足

1.カントー省

 カントー省の位置は、メコンデルタの中心にあり、船舶5千トンクラスの国際港を持ち交易の中心となっている。水運・水利体系も比較的整備され、水も年中淡水が供給され、稲作や果樹栽培に適している。その中でカントー市は、メコンデルタの中心としての機能を充実させつつある。しかし、大農業地帯の中心として都市が形成されたため、カントー大学を別とすれば、文化・教養・医療施設が未発展である。カントー大学も、特に農業の発展に応えること、また、国家職員・テクノクラートの育成など文化面より実利的な学部が伝統的に優秀とのことである。ただ、消費型の都市ではなく、生産人口が多いことからみて、また、メコンデルタの農業の特徴−商品化率と再投資率の高さからみて、さらに今後かなりの展開を遂げることはまず間違いない。電化と交通(港湾と道路網)の整備がすすめば、工業地帯が成立する可能性もある。電気は、いまのところカントー省に一つ火力発電所があるのみ。未調査は、雨期の交通網の状態。工場に必要な程度の教育を受けた労働者・管理者の雇用は、カントー市周辺であれば、そんなに困難ではないだろう。この地域では農業の機械化がすでに始まっている。ここ2〜3年の収入動向が続けば、農家への蓄積が飛躍的に高まり一層の生産の拡大が進むだろう。1年に1000万ドン(約10万円)近い蓄積をする農家がかなりある。(北では、100万ドン〜200万ドン程度が平均と言われる) 同時に、農村の基盤整備の需要が高まる。
 農民の互助活動は、地方政府の努力とも相まって組織され始めている。技術面の指導は、この農民の「クラブ」と省農業局(勧農センター)−県農業室の行政系統の「勧農」組織が結合する形態でおこわれている。オーモン県の果樹栽培村では実際の技術指導は、カントー大学とクーロン河平野米研究所の技師によっておこなわれていた。この省の場合には、技術指導により、ある一定部分の農民の支持をとりつけていることはまちがいない。機械の導入に関しては、日本のように個別農家ごとに一式購入することはできないので、農繁期に請負で各農家の田畑を耕耘、脱穀してまわる専門のグループがある。カントー省オーモン県ではほとんどの農家がこのグループを使っていた。
 土地の所有・使用権問題は、80年代後半に旧土地所有者に「請負」または「落札」させることで、基本的に土地改革の始まった79年以前に戻した状態になっている。ただ、昨年も、1つの県(オーモン県)だけでも数百人単位がデモンストレーションで土地返還を要求する行動があった。
 省農業局は、農産物をいかに日本などへ輸出するか、どのようにしたら可能か、に強い関心を持っていた。具体的には米や果物類。これは、国内では販売し尽くせないこと、そのため価格がどうしても安くなってしまうこと、からきている。ただ、農産物の品質はまだまだ一定していないようである。

 資料:

上に戻る

2.ソクチャン省

  ソクチャン省はカントー省に比べると、土地が痩せていて貧しい(塩分が多いのと、明礬質のため)。カントー省はほとんど2期作以上であるのにたいして、ソクチャン省はカントー省沿いを除いて1期作がせいぜい。また、自然の影響で不作になりやすい。沿岸地帯には、クメール人が多く、貧しいものが多い。(おそらく、いちばん初めに住み着いたのはクメール人で、その後、中国人とヴェトナム人がやってきて定住したと考えられる。分かっているいちばん古い建物は、300年ほど前のクメール寺院とのことだった) 中部は、乾期に2輪車すら通れない孤立した状態の地域があり、旧解放区であった。(ほとんど丸太1本のはしで水路を渡る) 最近やっと、井戸が掘られ、生活水準が向上しつつある。生産面では、エビの養殖と畑作の影響が大きい。ただ、土地のない家族も多く、発展からは取り残されているようだ。土地のない人々はクメール人多住地帯に多かったが、こうしたクメール人の多くは、ベトナム文字が読めず、ヴェトナム語が十分理解できないようすであった。つまり、半失業状態にあるきわめて経済的には不安定な層である。これは、政府の民族政策にも問題がありそう。また、キン人(ヴェト族)のクメール人にたいする観点(かなり蔑視的な感じがする)にも。歴史的には、こうしたクメール人の多くは、旧サイゴン政権軍の兵士となって一家を養い、農業上の知識を得る機会を持たず、解放後は一旦土地を受け取ったものの、うまく経営できなかったといわれている。現在では、すべて土地を旧所有者に返却したもの、また借金の利息として土地の耕作権を渡しているものなどがあり、これらの家族は出稼ぎと日雇いで飢えをしのいでいる。こうした家族はまた、子供の数が多く(7〜10人程度)、文盲が多く教育水準は低い(表5人口増加率参照)。一方、多くのクメール寺院は現在改築中で、かなりの拠金を信者から集めていることはまちがいないようだ。また、クメール人の社会では男子が16歳になると2〜3年程度寺院で修行をする習慣も続いている。ただ、クメール人の中でも、階層・階級分化がすすみ始めているようで、エビの養殖で成功した人は年間30万円近い収入を得、また地主のようにすべて人を雇って直接耕作をしないものがいたり、金を高利(年率120〜180%近く)で貸すものがいたりと、極貧層の対極に富裕層が形成されてきている。ただ、飢えといっても、旧植民地時代、大地主制時代に伝えられたような凄惨さはない。飢え死にするという不安はインタヴューではまったく感じなかった。貧困者の意識としても、解決を積極的に社会に求めようという社会的意識も少ないだろう。実際には賃金を安く買いたたかれていたり、高利で金を借りていても相手に対する憤りの言葉はなかった。これは、宗教の影響もあるかも知れない。エビの養殖を除いて、蓄財をなした家族には、農業の傍ら小商売をしているものが多い。
  旧解放区の村の農民(キン人)の意識は、土地問題に関する限り、きわめて保守的であった。土地の所有は永遠に認められるべきというのが、2部落の党書記の共通した意見で、土地改革で土地を分与した農民(党委員会との関係は良好のようだが)にいたると土地改革によって取られた旧来の土地を全て返還すべきと主張する。この農民は現在でも3.5haの土地を使用している(土地改革以前は、6.5haを所有していた)。ただ、この地区は45年当時からの土地改革実施区域で土地がすでにある程度平等に分配され、また自力での開墾面積が広いところで、祖父母・両親らが荒れ地から苦労して開墾したという気持ちが、頑強な主張ににじみでているのであろう。この地区では、政権にたいする不信も見られた。(具体的には、使用権への不満や村や県農業室が主催する勧農運動にたいする無関心など) それでも、1つの村では種エビの購入は共同でおこなうようにしていた。1人の部落党書記は、農業経営で蓄財を成しており、昨年約64万円で家を建設している。この人は、解放勢力に18歳(70年)から加わり、解放後も軍隊に残り80年代後半に負傷して帰郷したあと農業を営んでおり、情報を収拾するのにとても熱心で新技術や新事業(畜産など)をいち早く採り入れ、抜きんでた成果を納めている。こうした地域における知識量の差がこれほどの成果の差になることは興味深い。以前筆者がタインホア省で訪問した農家といい、士官クラスの帰還傷病兵は、軍隊における教育や新聞・雑誌・出版物の購読を通して、知識の吸収能力を高められている。そのことは、技術の導入や市場動向掌握の基礎となっている。会ったもう一人の部落の党書記も帰還傷病兵。旧解放区の解放運動の主要な性格は、貧農による土地の入手(先行した土地改革)とそれ以降は土地所有者の自らの土地の防衛といった性格だったのだろうか。村落のインフラの整備に関してソクチャン省に要望する口添えをして欲しいという要請は受けたが、貧困者にたいする援助を、といった発言は聞かれなかった。
 海岸には1つの大きな合作社があり、活発に活動していた。これは、エビの養殖と塩の生産、エビの餌になるプランクトン(?)の養殖を専門としている。現在では、塩の生産は価格が低いためあまり活発でなく、エビの養殖に集中していた。この合作社は毎年、エビ養殖地の請負(割替え)を合作社社員に対して行い(1戸最大3ha)、合作社自体も利益の一部を蓄積している。ここでは、種エビの共同購入(ニャチャンの国営企業またはカントー大学)とカントー大学の技師による技術指導がおこわれている。合作社の運営にたいする不満は聞かれなかった。もともと、稲の生産地ではなく、塩の共同生産地だったため。合作社には、申請さえすれば、加入することができるそうで、村につとめている職員(クメール人)も今年からエビの養殖を始めるという。インタヴューした1人の青年はこの2年間でバイクを買い家を建てることができたと満足げであった。
 ソクチャン省の農業局は、資金の導入に強い関心を持っていた。長・中期の融資を人道援助団体などから得たい、とのことであった。

 資料:

付録 ベトナムの一般的経済状況】

 産業人口の7割以上は農業人口が占め、次いで約1割を工業人口が占める。しかし、利益という観点で見ると、商業や工業以外の国家事業の占める位置がきわめて大きい。農業では、自己蓄積は容易ではない。他の調査によれば北部農村でのは1世帯当たりの蓄積は年間100米ドルから200米ドル程度といわれる。これに対し農村であっても都市近郊の商業地区では300米ドル近く蓄積するところもあるという。(メコンデルタには豊かな農民が多く存在する-後述) 統計によっても、農業に対して、工業・商業や他の産業の従業者1人あたりのGDP寄与率は4倍以上にも上っている。その原因の最も大きいものは農民1人あたりの耕作面積がきわめて狭いことであろう。以前に筆者が行った北部での農民へ聞き取り調査によると、農業人口の労働可能時間の約4分の3は生産的活動に投下されていない、ということであった。言い換えれば、半失業者の群れが大量に農村に存在しているということである。

表2、GDPおよび労働者数の産業別比率 (1992年)

 

 グラフ3 GDPおよび労働者数の産業別比率 (1992年)

 出所:『統計年鑑 1993』統計総局発行より加工
 鉱工業では、かなり多くの国営企業が危機的状況に陥っている。具体的には織物や紙製品、機械の生産などである。他方で、石油をはじめとする燃料部門などでは、非常に高い利潤をあげている。聞くところでは原油生産業界の技術者の給与は驚くほど高いそうである。
 ベトナムの工業は、一般的にいって原料が国内で自給できていない。繊維や製鉄、機械製造、また石油化学など主要な工業では原料のほぼすべてを輸入せねばならない。そのため、周辺各国に比べ加工産業では賃金が低いといってもインフラの未整備も相まって製品価格では決して国際的基準から安いとはいえなくなる。したがって国内で原料から一貫して生産する体制を作ることが近い将来の課題となる。原油が生産できることはベトナムにとってきわめて貴重である。

表4 工業部門の利潤率

 

 出所:『ベトナム工業資料1989-1993』統計総局発行
 他方で、統計によると金融やサービスなどはきわめてGDP生産性が高い(表2・グラフ3)。国営独占事業や土地などへの投機、また外国人からの特別な収入などによって都市においては新興成金などが発生している。数年前から工場なども生産はそっちのけでホテルや外国相手のサービス業に転身を図り、都市住民は土地の購入へと奔走したものが多い。以上の統計にもそういった状況の一端をかいま見ることができよう。
 金融業に関しては、民間の利率が異常に高いことに注意を払う必要がある。80年代のインフレの影響も考えられるが、例えば貯蓄組合の預金金利は筆者が滞在中の1993年には月4〜5%程度であり、南部の訪問先では農民間の貸し借りで月30%というものまであった。人道的融資でさえ、月5%であった。地方の省都に行くと新築されたばかりの豪華な農業銀行が目を引いた。明らかな貸し手市場である。需要に対して明らかに資金の供給が足りない。これを促進している要因の一つが物価の上昇で、手持ちの資金を早くモノに変えておこうという欲求も強い。一面では景気は過熱しているが、不動産への投資が経済規模に対して多きすぎるだろう。高金利の影響は資金の返済のため、また資金を借りるために土地を手放さざるを得なくなった農民の発生にも現れた。
 さらに国境を抱える省では密貿易は止まるところを知らず、国内の生産にもかなりの悪影響を与えている。地方・中央の一部の役人はこれを私的蓄財の源にしている。
 国外との関係では、日本以外では華僑・華人の影響力が強く、シンガポール・香港・台湾などの諸国が貿易においても、投資においても上位を独占している。特に、シンガポールと香港はベトナムから輸入した商品を日本やヨーロッパに再輸出している。国内的にも華僑の影響力は南部を中心に根強いものがあり、農作物や農業用資材では販売網ができあがっているとのことである。実体の把握はベトナム人研究者にも難しいという。最近は、韓国資本の影響力が増大している。
 蓄積のパターンとしては、これまで 1.農村の食糧自給及び余剰部分の販売による農村と商人への蓄積、2.農村における商品作物栽培や家畜・水産物養殖あるいは手工業の開始・拡大による農村と商人への蓄積、3.工業生産による労働者の賃金収入および利潤の生産資本と商業資本への蓄積、4.外国資本の委託加工(主に前貸し問屋制形態による)からの加工賃の地元への蓄積、5.原油の輸出等の高利益の自己蓄積などがあげられる。しかしすでにみたように、商人や排他的独占業種の一部職員が多くの利益を確保し、その上監督官庁の一部の役人が横取りするという私的横領機構が存在し、循環は生産的・合理的とはいえないだろう。
 他方で、国家財政は、徴税の仕組みが確立されておらず実質的には国家企業からの上納で多くを賄っている(表5参照)。したがって、国営企業の改革は自らの収入源に対する既得権益を左右する問題でもあるのである。地方財政では、地方政府管轄の企業からの上納に加え農民からの土地税および各種人頭税による収入が大きい。農民に対しての税は土地の生産性(米作を基本)を基準に課されるため、副業を持つ農民と副業を持たない農民、特に零細な米作専業農家との格差を助長するものとなっている。副業部分に対しては基本的に税は課されないのに対し、農業収入に関してはその一定割合が税金や各種徴収項目の対象となり、いきおい僻地の農民、米作以外に副業をおこないにくい地域の農民の税負担率は相対的に高くなる。ベトナムの税法でも累進税率を定めているが実質的には逆になっている矛盾がある。

表5 国家財政の収入源(%)

 出所:『ベトナムの経済と財政 1986-1992』統計総局より
 こうしたなかで、都市富裕階層から消費ブームが沸き上がっており、土地、バイク、電化製品の購入や家屋の新築がブームとなっている。これが都市の商業を活性化させている。しかし、他面では多くの国営工場が倒産の危機にあり、またインフラの改善は遅々として進んでいない。一方でいわゆる奢侈品の輸入増加は貿易赤字を拡大させる。
 蓄積のための投資資金は絶対的に不足しており、そのことも、金利の異常な高騰を引き起こす一因といえるが、上にみたように蓄積源が製造業に対する投資に向けられることは少なく、政府は安易な外国資本の導入に頼る傾向を示している。これはきわめて危険な傾向である。最近ではベトナム政府・党の経済政策責任者と経済研究者との間に外国資本を導入する場合、最低でもその2分の1の額の国内資本を用意しなければならない、という認識が生まれている。実際の合弁ではベトナム側が投資できる資金は限られておりことは容易ではない。
 この時期のベトナム経済の根本的課題は、比較的高率な利潤を途中で私的に浪費させることなく、また退蔵させることなく、再投資させる蓄積構造を作り上げることであろう。その意味で、メコンデルタの調査はメコンデルタ農民の生産への投資指向の強さを物語っており、きわめて興味深いものであった。(【訪問地の概要】2.経済活動の現況参照)
 下に地域別の非国営部門の資産、投資部門別構成(1992年)についての統計(『統計年鑑』統計総局より作成)を引用する。これを見て分かることは非国営部門の資産が特に文化・生活部門および商業・サービス部門に偏っており−それもホーチミン市を有する東南部に集中−、投資対象については全国的に家屋(いわゆる不動産業を含む)部門に偏っていることである。人口の7割を占める農林業がさほどの割合を占めておらず、また工業も紅河デルタで約4割を占めるにすぎない。傾向としても農業・工業の位置がきわめて低い。つまり非国営部門に関しては工業化の推進力としてはきわめて弱いといわざるを得ず、この時期の特徴を示している。グラフについてさらに補足すれば、北部の紅河デルタでは比較的工業部門の資産が蓄積されており、メコンデルタでは農業部門の資産が蓄積されている。それとは対照的に国家予算からは工業に対する投資金額は際だっている(1992年で約48%)。問題は効率的運用および財政規模であろう。ちなみにグラフ5非国営部門の投資総額は10兆8643億ドン、グラフ6国家基本建設投資の総額は7兆5664億ドン(1ドル=11000ドン強で安定)である。
 
グラフ4 1992/12/31現在までの非国営部門の資産(全体=100%)

グラフ5 1992年非国営部門の投資(家庭用の消費は除く)(全体=100%)

グラフ6 1992年国家による基本建設投資(部門比)

出所:『統計年鑑1993』統計総局より作成
注:ベトナムは、南北に縦長の形状をしているが、経済的・自然的特徴により通常7区域に分ける。ハノイは紅河デルタの中心であり、ホーチミン市は東南部に属する。
上に戻る

おわりに

 筆者の属していた経済学研究所の助力と各地方の人民委員会や農家の皆さんのあたたかい協力により個人では到底実現不可能な調査活動をほぼ2週間にわたりおこなうことができた。個別農家に対する統計調査としてはサンプル抽出の恣意性や筆者の語学能力にも問題があり、不十分と言わざると得ず、今回は調査旅行を通じて見聞きすることのできた情報を整理、報告するにとどめた。しかし、省でも県でも村でもそれぞれ当地の経済状況について行政責任者から貴重な説明を直接聞くことができ、そのことから地域の風土、生活、経済、現在抱えている問題点などを伺い知ることができた。このことだけでも記録する価値があろう。もちろん44軒の農家を訪ねてインタヴューをおこなっており、直接農家を訪問し農民の話を直に聞けたこと自体、生活の実感をわずかばかりでも共有することができ、この簡単なレポートの裏付けとなっている。この調査旅行のお陰でハノイやホーチミン市という大都市(ベトナムでは日本の東京と地方の山村という以上の差がある)に住んでいるとまったく見えてこない地方の実情をかいま見ることができた。個人的にも実に貴重な経験であった。

 読者諸氏にベトナムの一地方の状況を理解するのに少しでも役立てば幸いである。もちろんベトナムも広く山岳地帯ではまた違った難しさもある。機会があれば続編をすすめてみたい。今回のレポートの結論自体は本文の中で何度も繰り返されているので改まって触れることはしない。というより強引な結論が多いレポートになってしまったと反省している。せっかくの当地の職員や農家の暖かいご協力に十分こたえられていないことは残念で仕方がない。

 経済一般について紹介した部分では、ベトナムに住んでいれば当然感じているにもかかわらず統計や公式の出版物では言い表されてないところが多く、伝聞の話を多々使用することになった。

 ベトナムの状況はこの調査旅行が終わってからも明らかに好転しているが、今後ベトナム政府の舵取りはこれまでにもまして難しくなるだろう。今後の自立的な発展を心より祈ることとしたい。

追記)

 この文章自体は1994年の帰国後すぐに書いておいたもので、このほどホームページが開設でき特別な出版が必要で無くなったので、あえて公開することにした。リンクしている写真集(約2MB強)も参照してみてほしい。雰囲気が伝わるのではないだろうか。この後、ベトナムの経済はバブル崩壊を経て踊り場を迎えていると言われるが、基本的な課題は当時と変わらないだろう。変わった一番大きい点はバブルの崩壊により、金利が下がり不動産への投資が著しく減退したことであろうか。その反面、新たな投資先を見つけることができなく見通しは厳しい。

 なお、当時の資料(ベトナム語)については保管しているので、学術研究などに必要な方があれば提供も可能である。忌憚のない批評、意見等を歓迎する。

上に戻る      Homeへ戻る       メール